数十年のブランクを経てあらためて別メディア(CD)で聴き直してみると、
「こんなのだったのか?」とがっかりすることが、しばしばあります。
加齢による感性の変化か、或は聴覚が肥えてきたのかは不明ですが?
しかしながら、同じように数十年ぶりに聴いた演奏が、嘗ての感動をいきいきと甦らせてくれ、
「やはり、素晴らしかったんだ!」と感慨に浸る喜びも、少なからず体験しています…。
先日、RCAから発売されている「LIVING STEREO 60CD collection」というボックス・セットを購入しました。
当時最新の技術を駆使し、録音の良さ(Hi-Fidelity=高忠実度・高再現性)を売り物にしていたこのシリーズ。
日本でのお披露目時には、そのHi-Fiぶりを誇示するために、
舞台上にカーテンを下ろし、
先ず、その前に置かれたスピーカーから音楽を流し、
ある時点でカーテン裏に控えた演奏者へとブリッジして、
聴衆に対し、「さて、どこからが生演奏か、お分かりになりますか!」と、問いかけたとか。
どのくらいの正解率だったかは定かではありませんが、そんな前宣伝に乗せられて、何枚かのLPを買った記憶があります。
もっとも、当時の私にとってのHi-Fiとは、音質云々よりも、
「オーケストラの強奏部で、音が歪まないか否か」という、オーディオ的には低いレベルの話なのですが…。
そんな中の一枚が、アーサー・フィドラー指揮するボストン・ポップス管弦楽団の、「ロシア音楽名曲集」。
その中に収録されているハチャトリアンの「剣の舞」を、自宅のステレオで大音量で聴きたいという願望だったと思います。
今から50年以上前と言えば、「春の祭典」がまだ前衛音楽とみなされ、耳にする機会も少なかった時代。
このころ、強烈なバーバリズムを感じさせる作品と言えば、
一番にハチャトリアンの「剣の舞」を挙げる人が多かったのではないでしょうか。
閑話休題。
お目当てだった{剣の舞}は、残念ながら当時の我が家のシステムでは盛大な歪を伴い、期待外れだったのですが、
その代わり、併録されていたボロディンの「イーゴリ公:序曲・ダッタン人の踊り」や、
R=コルサコフの「ロシアの復活祭」には、ずいぶん入れ込んだものでした。
中でも「ロシアの復活祭」は、よほど気に入っていたのでしょう。
序奏部の、荘重でありながら、どこか懐かしい郷愁が感じられる旋律に、果てしない大自然が広がる中央アジアの草原を彷彿。
その後も聴き込むほどに、異国の地への憧れが高まり、
その充足感に心地良さを覚え、長年にわたる愛聴盤でした。
20数年前に、CD時代到来が喧伝される中で、
不覚にも大部分のLPを手放した後も、何種類かのCDでこの曲を聴いたものですが、
なぜか退屈で、「いいなぁ!」と思うことすらありませんでした。
CDというメディアで20数年ぶりに聴く、フィドラー/ボストン・ポップス管による演奏!
しかし最初に聴いた時は、記憶していた演奏とは異なり、
あまりに淡泊に感じられ、期待は大きく裏切られってしまいました。
ただ、序奏部のヴァイオリン・ソロや木管の奏する旋律に、雲雀をはじめとする様々な鳥たちの囀りを感じたり…。
楽器を変えて奏されるコラール風の旋律に、1移ろいゆく季節(春)への喜びが感じられます。
ちなみに復活祭は、春分の日の後の、最初の満月の日に行われるのですね。
あらためて聴き直してみると、早めのテンポで進められるためか、淡泊に感じられたこの演奏から、
心地良い抒情や郷愁が聴き取れるようになりました。
それは、嘗てLP盤で愛聴していた頃の、懐かしい感慨です!
この後、N.ヤルヴィ、E.スヴェトラノフ、G.ロジェトヴェンスキー、そしてA.クリュィタンスの演奏を聴いてみましたが、
過剰な感情移入を排した心地良いテンポで流れるフィドラーの演奏からのみ、
中央アジアの広大な風景や、曲に込められた人々の慎ましやかな喜びや感謝の気持ちを感じることができました。
私にとってはかけがえのない、宝物のような演奏です!
ちなみに、このボックスセットに入っているC.ミュンシュ、F.ライナー、A.ルービンシュタインらの演奏は、
名盤と知りながらも、一部を除いては私のレパートリーからは外れていたものが大多数。
これらの演奏も含め、聴き進むほどに「良い買い物をしたなぁ!」と思っています