その当時、駅前の大通り沿いにあるシティホテルの一階に、Jという紅茶専門の喫茶店がありました。
本格的なオーディオシステムから流されるクラシック音楽をBGMに、
様々な種類の美味しい紅茶が楽しめるハイソな店として、評判が高かったと記憶しています。
私も妻に連れられて何度か訪れたことがありますが、
店内はいつも多くのお客さんで賑わっていたにも拘らず、
店を訪れるみなさんが弁えておられるからでしょうが、いつ来てもシックで落ち着いた雰囲気が漂っていました。
未だにレストランや喫茶店に入っても、食事やお茶が終わると、間を持たすことができずにさっさと席を立つために、妻に呆れられている私ですが、
ここの空間では、自分なりに曲の区切りがつくまでは、心ゆくまで存分に寛ぐことができました。
ある時店内に入ると、
柔らかく粘り気を帯びた音色で、雄渾に泰然自若と『英雄交響曲』の終楽章が流れていたのですが、
この音の持つ佇まいには、心底惹かれてしまいました。
お店の方に教えていただいたアンドレ・クリュイタンス/ベルリン・フィルのレコードを早速買ってきて、我が家の装置で鳴らしました。
辛うじて、店内で鳴っていた音の雰囲気を感じることはできましたが、勿論その佇まいには遠く及びませんでした。
その頃は、「レコードなんて、そこそこの音さえ出れば何でもいいわ!」と考えていましたので、その喫茶店で使用されている機器については、全く興味がありませんでした。
それから数年後には新しいメディアとしてCDが発売され、
これを我が家に導入するに当たっては、従来のアンプが用をなさなくなったために、オーディオに興味を持たざるを得なくなったのです。
システムを構築するにあたって、専門店であれこれ試聴している時にイメージしたのが、松本のJで聴いた、あの『英雄交響曲』の音の佇まい…。
勿論、予算的にそんな思いが叶えられる筈はありませんでしたが…。
それでもこのLPがCD化されるのを、首を長くして待ち焦がれていましたし、
今でもこの演奏を聴くたびに、Jという喫茶店の雰囲気や、その時の音の佇まいを懐かしく思い出させてくれる、心に残る大切なディスクとなっています。