今考えると信じられないような、他人から見ると「アホかいな!」と失笑されるような経験も少なからずあります。
今回は、シベリウスの交響曲第4番のLPを初めて聴いた時の話です。
何かの本で「シベリウスの全7曲の交響曲中最高傑作」との評価を目にして購入しました。
高校2年生の頃だと記憶していますが、FMで放送された交響詩「フィンランディア」を聴いていたく感激、彼の作品をもっと聴きたいと思っていました。
そんな時期にこの曲が新譜で発売されました。指揮がカラヤンであった事も購入の大きな動機です。
60年代の中頃には、既に現役最高の指揮者との評価を受けていましたが、
「受けを狙った作為的な表現で、精神性に乏しい」
そう主張するアンチ・カラヤン派も多く存在し、彼の演奏をろくに聴いた事がない私も、知ったかぶりして後者の立場をとっておりました。
ただ、フルトヴェングラー(1886〜1954)のベートーヴェン演奏と比較すると、何が起こるのかワクワクドキドキするようなスリリングさが皆無な演奏と考えていたことは確かです。
でも、気になる指揮者であり、独・襖系以外の曲が出れば聴いてみたいとは考えていたのです。
第一楽章冒頭の導入部の動機が、それまで色んな曲で聴いてきた旋律とは異なり、ネジ巻き式の蓄音機のネジが緩んで、回転が遅く鳴ったような音に聞こえました。
「レコードプレーヤーが壊れた」と思い、慌てて針を上げ、
すぐにターンテーブルの回転をチェックしましたが、遅くなっている様子も有りません。
二度、三度と、改めて針をおろしてみましたが、何度やっても同じような音が…。
当時の私には、余りに先鋭的な音だったのか、「こういう曲なんだ」と納得するには、しばらく時間がかかりました。
未だにカラヤン盤でこの導入部分を聴くと、何となく気恥ずかしくなってきます。
解決の見えないほの暗さを湛えたままの第一楽章、
木管の奏でる楽しげな旋律の中にも不安が忍び寄る第二楽章、
曲に大団円を求めるような聴き方しかできなかった当時の私にとっては、いかにも難渋な音楽と感じられました。
大学生になってから、F.カフカ(1883〜1924)の『城』を読んだ時、この曲に不条理の世界との共通項を感じた事を思い出します。
シベリウスの交響曲は、やはり大学時代に実演で渡辺暁雄さん指揮する『第二番』に接し大きな感銘を受けて以降、今も大好きな作曲家の一人です。
中でも『第四番』は、聴きこむ内に曲の受け取り方が変化してきた作品。
世の不条理を我が身に切実に感じられるようになる40歳前半までは、カラヤン美学に酔いしれていましたが、今はより素朴な演奏を好んで聴きます。