放 浪 記 (113)

小布施町散策記(備忘録)

2012.11.17


ボランティア仲間と一緒に、北信地区の観光地小布施町へ行ってきました。

私が当地を訪れるのは初めてのことでもあり、仲間と相談の上で、予め当地の観光ボランティアの方にお願いして、街中を1時間ガイドしていただきましたが、

そのお蔭で、単なる物見遊山に終わらず、町の歴史を知り・考える事が出来、有意義な一日を過ごすことが出来ました!

以下は、当日ガイドしていただいた内容を自分なりに整理し、備忘録として書き記したものです。


初めて訪れた小布施の街並みは評判通りで、違和感を覚える建物は全く存在せず、商店や一般家屋、そして銀行の建物までもが渾然一体となって、見事に溶け混んでいます。

しかも、127軒もの商家や個人宅が、町外からの訪問者の便を考えて、通りから通りを最短距離で繋ぐべく、通路として庭を開放して下さっているのです。

勿論、強制されることではありませんが、補助する費用が一切支給されない中、それぞれに趣深い庭を作っておられました!

昔から、街全体が裕福だったということでしょうか…。

歴史的にみると、小布施の地が千曲川水運の最上流地であり、

ここで荷が積み込まれ下ろされた、いわゆる要の地であったことが、街を裕福にしたと考えられそうです。


そんな地で大きな成功を得た高井家の十代目鴻山は、この地を訪れる佐久間象山、小林一茶、葛飾北斎などを厚遇し、交友を図ったそうですが、

中でも晩年の北斎は、天保時代に起こった大恐慌に起因する、水野忠邦の「天保の改革」によって奢侈が禁じられ、錦絵や版画の販売が規制されたために、

晩年の都合4年間にわたって小布施の地を訪れ、創作活動に励んだという事実が存在することは、むベなるかなとも思うのです…。

そんな経緯があったことから、小布施には彼の作品を所有する町民が少なからずいたとか。


北斎作品が海外でブームになった折に、

流出を危惧した町は、町民が所有する作品を買い上げ、或いは貸与を受けることによって、

1976年に美術館「北斎館」を設立。

当時は、「田んぼの中の美術館」と揶揄されたようですが、

1980年代半ばには、「北斎館」を中心として、歴史的遺産を残した街並修復事業を実施した結果、観光客が飛躍的に増加したとか。


ガイドして下さった方は、当地に定住するため、10年前に一般家屋を新築されたそうですが、

その方のお話によると、敷地は300〜500と定められ、建物の構造や色彩にも細かく干渉されるし、敷地の25%には植林する等々、

町の建築規制は大変に厳しく、「口出しはされるが、補助金は一銭も出ない」とのこと。

しかし、それに対応することによって、資産価値が上がると考え、多くの住民も納得しておられるとか。

官民の合意のもと、一体となって観光地としてのステイタスを高めておられる現実には、舌を巻きました。


ところで、小布施には全国的に販売網を拡大している栗菓子で有名な3つの老舗菓子店があることから、

「栗の年間収穫量もさぞかし!」と思い込んでいたのですが、

全国的に見た栗の収穫量ランキング(平成21年)によると、茨城・熊本・愛媛がベスト3で、全収穫量の50%を占めており、

長野県は全国8位で2%強、小布施の生産量は、県内の半分にも満たないだろうとのこと…。

「小布施栗」というブランドは、歴史が育んだ豊かな商才に裏打ちされたものだと認識した次第です!