勿論、自分の本に限ってですので、念のため…!
「重要なポイントを、はっきりと認識した」との確認や、
「必要な折に、すぐに見出せるように」との考えから、引いていたように記憶しているのですが…。
でも、後年になって読み返した時に、そんな傍線を発見すると、
「何と的はずれな…」とか、
「こんな下らん内容に、感動していたのか!」などと、
自らの未熟さと愚かさに、赤面することが度々!
「俺も、なかなか賢明な学生だったんだなぁ!」と思えたことなど、一度としてありません。
とえり分け深い内容を有する文学書の場合は、若き日の自分が、如何に浅薄であったかの証拠を突き付けられるようで、
妻の目に触れないように、直ちに証拠の隠滅を図ることが、しばしばあります!
傍線を引いたことを、後悔することしきりです…。
その点音楽の場合は、若き日の感性の未熟さが、証拠として残されていないので、気楽なものですね。
今日聴いたのは、シューリヒト指揮するウィーン・フィルによるブルックナーの交響曲第9番!
言わずと知れた、昔から多くの人々から絶賛されている名演奏です。
この曲に関しては、-個人的な思い入れの強いフルトヴェングラー/ベルリン・フィルの演奏以外に受け容れられず、
LPでシューリヒト盤を聴いた昔には、何の感動も得られませんでした。
昨日、ネットで注文していた全く同じ演奏(本命はカップリングされている8番でした)を聴いて、
嘗てフルトヴェングラー盤で得られたのと、同質の感動が蘇りました。
「ブルックナーが蘇った!」、そう讃えて差し支えない演奏なのでしょうね!
嘗ての感性の未熟さを示す具体的な証拠がありませんから、
妻にも、あっけらかんとして話すことが出来ます。
「全く同じ演奏を聴いて、そんない違うものなの?」と、呆れられましたが、
「自分は進化(深化)してきているのだ」と、無邪気に喜んでいる私です…。