翌日の新聞で、その記事を目にした記憶はあるのですが、
別なことに気を取られているうちに、すっかり関心がいの出来事として、忘れてしまっていたというのが実情!
若い頃、語学コンプレックスを強く抱いていた私は、だからこそ歌詞の意味を理解しようと、対訳を片手にオペラやリートを聴いていたために、リズム・メロディー・ハーモニーといった、肝心の要素への集中が疎かになっていたのでしょう…。
音楽を聴く悦びが、全く感じられず、長い間、これらのジャンルからは遠ざかってしまいました。
指揮者・オーケストラ・器楽奏者等と比べて、声楽家に親しみが湧かないのは、そんな理由によるものです。
ところが昨日、友人から来たメールを読むと、「どうして吉田秀和氏を採り上げているのに、フィッシャー=ディスカウに触れないのか」と、暗に叱咤されているような気がして、
あらためて、20世紀の生んだ大歌手の記憶を辿ってみると、
今思い出すだけでも、三度の大きな体験がありました。
初めて彼の名を知ったのは、多分高校生の頃、イタリアオペラの来日公演時のTV放映でした…。
ヴェルディの歌劇『椿姫』で、父ジェルモン役の彼が登場した時、
会場に一瞬緊張感が漲ると同時に、声にならないざわつきが生じたこと、今でも鮮明に記憶に残っています…。
それがフィッシャー=ディスカウという、20世紀を代表する大歌手との、初めての出遭いでした。
この時に歌われたアリア「プロヴァンスの海と陸」は、未だに強く心に焼き付いています。
その後、フルトヴェングラーとの共演で、今も名盤として評価の高い、マーラーの『さすらう若人の歌』に、強く心を打たれました。
でもその感動は、当時心酔していたフルヨヴェングラーという存在によるところが大きく、
氏の歌唱を、フルトヴェングラーが指揮するオーケストラの楽器の一つとして捉え、
「彼の指揮で歌ったからこそ!」と信じていました…。
でも、今日改めて聴くと、実際はフィッシャー=ディスカウがフルトヴェングラーにインスピレーションを与えていたことが、良く理解できます!
シューマンの「ケルナーの12の詩による歌曲op.35」での、どこまでも拡がる、瑞々しく勇壮なロマンの世界。
そして「リーダークライスop.39」、とりわけ第1虚「異郷にて」での、瞬時に異次元のロマンの世界へと誘われる奇跡のような瞬間!
これらの歌唱は、シューマンの歌曲の素晴らしさを私に教えてくれた。貴重なディスク!
無意識のうちに、氏の演奏から大きな感動を受けていたのですね!
特に、マーラーとシューマンから受けた感動の大きさは、
50年を超える私の音楽体験の中でも、十指に数えられるもの!
これを機会に、我家にあるフィッシャー=ディスカウのディスクを、再度聴き直していきたいと思いました!