放 浪 記 (61)

スポーツマンシップ

2010.5.29 


今開催されているテニスの全仏オープンで、もうすぐ40歳をむかえるクルム伊達選手が、初戦を突破。

残念ながら2回戦は、ランキング上は格下の選手に敗れてしまいましたが、

それでも世界中の強豪ひしめく厳しい実力の世界で、ここまで復帰されたことには、素直に敬意を表したいと思います。


彼女の名前を聞くと今でも思い出すのが、1996年にシュテフィ・グラフ選手と大熱戦を演じたウィンブルドン大会の準決勝…。

この熱戦は、第1セットをグラフが6−2、第2セットはグラフ2−0でリードの後、伊達が6ゲームを連取、

ところが、第3セットが1−1となったところで、グラフ側から「ボールが見にくい」との理由で試合の順延を申し入れる、執拗な抗議がありました。

結局大会本部はグラフ側の主張を認め、以降のゲームは翌日に順延するとの決定が下された時、

観衆の多くは、伊達に傾いた試合の流れをいったん断ち切るための口実であることを感じていたようです。

もし、逆の立場で伊達側が抗議をしたところで、多分その主張は却下されていたことでしょう。

多くの社会人が遭遇し、腹立たしく思う強者の論理が、スポーツ界でもまかり通っているのです。

翌日1−1から再開された第3セットは、結局グラフが6−3で取り、伊達は惜しくも準決勝で敗退しました。


この出来事を、後年のラジオのインタビューで訊かれた伊達さんは、

「世界一の実力者とそうでない者との差は、そんな執念の違いでもあるのですよ」と、実にあっけらかんとした表現で笑い飛ばしておられました。

それは、全力を尽くして真っ向勝負したものだけが味わえる満足感であり、聴いていて実に爽やかな気持ちになったものです。

逆に四大メジャーで22回もの頂点に立ったグラフにとっては、既に忘却の彼方にの彼方に些細な出来事として忘れ去っていることでしょうが、

案外触れられたくない汚点として、心のどこかに後ろめたさが残されているのかもしれません…。