放 浪 記 (51)

早 春 賦

2010.2.7 


おとといの夜半から降りだした雪で、新たに7〜8cmの新雪が積もりました。

今回の雪は、日本海側に豪雪をもたらしている雪雲が当地の方にも少しばかり流れてきたためのもので、大雪にはなりませんが、

昨日は浅間山から吹き下ろす北風が強く、畑に積もった新雪が飛ばされて、いわゆる地吹雪が舞うような荒天。

日中の気温は0℃を超えてはいるものの、体感的にはそれよりも10℃くらい低いのではないかと思うほどの冷たさ!

それでも、舞い上がる粉雪が陽の光を受けてキラキラと輝くさまは、本当に美しいものです。


一転して、今日は午後から穏やかな日和となりました。

TVのニュースでは、一足早い卒業式が話題に上る季節になりました。

その割には、幼稚園から大学まで、卒業式は五度経験しているわけですが、

式典の内容の殆ど全てが、記憶から完全に抹消されています。

唯一覚えているのは、

小学校の卒業式で、歌詞の意味も碌に理解できていない「早春賦」を歌った時、

12歳の少年の胸に、楽しかった小学校での生活が走馬灯のように甦り、

二度と戻らない日々との惜別に、万感の思いを抱いたことでした。


春は名のみの 風の寒さや      
谷の鶯 歌は思えど      
時にあらずと 声もたてず      
時にあらずと 声もたてず

氷解け去り 葦はつのぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空
(当日は2番までしか歌わなかったため、3番は省略)

こんな内容の歌詞の意味を理解できたのは、漸く高校生になった頃ですから、

多分作曲者中田章氏(中田喜直氏の父)による抒情豊かな旋律と、卒業式という厳かな式典との相乗的な効果によって湧き上がった感動だったのだろう、そう考えていました。


この記事を書くにあたって、ネットで『早春賦』を検索していると、

この曲には、モーツァルトの歌曲『春への憧れ』(K.596)や、ピアノ協奏曲第27番(K.595)3楽章からの影響が示唆されているようです。

モーツァルト35歳の死の年に書かれたこれらの作品は、清明で無邪気さの中に、そこはかとない静かな悲しみを感じられるのですが、

その指摘を読んで、小学6年生の卒業式で『早春賦』を歌いながら全く同質の感慨を抱いていたことに、漸く気付きました。