それが著名な文化人であれば、嬉しさを通り越して、誇らしささえ感じるものです。
昨日の朝日新聞文化欄の『定義集』に、大江健三郎氏の音楽体験にまつわる話が収載されていました。
1963年の秋に、作曲家武満徹氏の自宅で、一緒にバッハの『平均律クラヴィーア曲集』第1、2巻全曲のLPを聴いた時の感慨が、
今年、たまたまラジオから流れてくるこの曲を耳にして、懐かしく思い出されたというものです。
46年前の感慨について、大江氏は
「…私はやはりこんなに特別なものがあるか、と魅きつけられたのです。そのうち一月ほどの暗い行き詰まりから解放されて、ああいうふうに人間は進むものだという、音楽を聴いての確信が続くまま、『個人的な体験』の序章を書き始めていました」
このように語られています。
その当時、誕生されたばかりの大江氏のご長男の光氏が、重度の障害を持っていることを告げられ、暗澹たる思いでおられたのですが…。
この曲と出会ったことによって、
父親としての赤裸々な心情を告白し、現実と真正面に向かい合うに至るまでの体験を綴ろうと考え、
小説『個人的な体験』を書く決意をされたそうです…。
ただ、ピアニスト名を聞きそびれたために、
後年になって、出会った当時の体験を再現するために、思いあたる限りのディスクを入手されたようですが、
いずれの演奏も、「私の胸の内には、これではない、という声がいつも起こりました」と記されています。
ところが今年になって、たまたまラジオから流れてくる、アンジェラ・ヒューイットの演奏する平均律を耳にした時、
「私の人生で跳び抜けていた音楽的体験」が、46年の歳月(光氏の年齢)を経て、懐かしい記憶として蘇った。
記事には、こういった体験が書かれていました。
1958年生まれのヒューイット女史は、この曲を1997年と2008年の二度、全曲録音をしていますが、時代的に考えて、初めて出会った演奏でないことは、大江氏は勿論ご承知のこと。
「何故だろう?」と思って、たまたま現在進行形で聴き進んでいる最中の、ヒューイットの2008年盤から数曲抜粋して、リヒテル盤・グールド盤と比較してみました。
リヒテル盤やグールド盤は、勿論全く異なった演奏ですが、共通項を見出すとすれば、演奏者の奏でる音楽に酔いしれて、心が満たされる名演です。
ところがヒューイットの演奏は、まず音色の透明感に気持ちが鎮められて、
聴き込んでいくうちに、演奏を起点として、聴き手の中で無限にイメージが拡大する、そんな趣が感じられるのです。
そんなことを考えながら聴いていると、僭越な話ですが、大江さんが感じられたバッハの素晴らしさを、少しだけ共有できたように思えてきたのです…。