『10秒0、夢の世界記録誕生』という見出しで、西ドイツのアルミン・ハリーという白人選手が、ローマオリンピック(1960年開催)の国内予選で、人類で初めて100mを10″0で走ったというニュースが大々的に報道されました。
しかし衛星放送がなかった当時は、海外での出来事を映像で見るには、空輸されてきたフイルムが放映されるのを待つしかありません。
新聞記事を読んだ私は、雲衝くような大男が、他を全く寄せ付けずに100mを走り抜けるイメージを抱きつつ、10″0の快走を観るのを楽しみに、その日から『ワールド・ニュース』の時間になると、TVの前に釘づけになっていました。
ようやくその快走が放映されたのは、新聞を読んでから3〜4日後。
ところが意に反して、ごく普通のすらっと背の高い白人が、号砲と同時に素晴らしい反応で飛び出し、他の選手より少しだけ早くゴールする姿を見て、
「大したことがないな」と少しがっかりすると同時に、「自分も練習すれば、世界記録が出せる!」と信じこんだ、きわめて単純な少年でした。
以降、初めて10秒0の壁を破ったJ.ハインズ、オリンピック四冠のC.ルイスを始めとする歴代の世界記録保持者の快走を見てきましたが、私にとっての最速のスプリンターは、1964年東京オリンピックの100m、400mRの優勝者,B.ヘイズでした。
100mの決勝では、くじ運悪く、中・長距離選手のスパイク跡でガタガタに荒れた第1レーンを走ったにもかかわらず、他を圧倒して、当時の世界タイ記録10″0で優勝し、
さらに400mR決勝では、5〜6番目でバトンを受けた彼は、あっという間に先行する走者を抜き去り、逆に圧倒的なリードを奪って完勝!
その時の100mを8″7で走ったと、競技場内で計測した複数の人が証言しています。
そして、東京オリンピックを最後に、その後のメジャーな大会は、すべて全天候型トラックで実施されるようになりました。
アンツーカーのトラックでは、全天候型とは違って、蹴ることによって土が崩れ、その分力のロスが生じます。
そんな条件の違いも考えると、「ヘイズこそが歴代の世界記録保持者を凌ぐNo.1のスプリンターだった」
青春の日々の感動的な思い出を、より素晴らしいものに保ちたいがために、半ば願望を込めて、そう信じ込んでいたのですが…。
しかしながら、今回の世界陸上でのボルトの他を圧倒する強さは、文句のつけようがありませんでした。
彼の強さを引き立てたのは、二着になったタイソン・ゲイの走りでした。
彼の叩きだした9″71の記録は、北京でのボルトの記録には僅かに劣るものの、普通ならば完勝に値する、完璧とも言える走り!
それを更に0、13″上回るボルトの記録は、まさに異次元の強さとしか言いようのないものでした。
東京オリンピックでのヘイズ神話の信奉者である私も、素直に脱帽せざるを得ない、素晴らしい走りを堪能させていただきました。
このレースは、いつまでも記憶に残ることでしょう!