リストのハンガリアン狂詩曲第2番、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の第1楽章冒頭部分、ショパンの『子守唄』、彼自身が作曲した『川のささやき』というエッセイのような曲でした…。
このコンクールで優勝すると、副賞として3年間のツァー契約が結ばれるため、有能なピアニストがこぞって参加する大会らしく、そこで勝者になるほどの逸材ですから、素人の私にも判るような技巧上の問題点などは、まずあり得ないと思います…。
結局は、演奏表現をどう感じたか、ということに尽きるわけですが…。
協奏曲やハンガリアン狂詩曲からは、これらの曲にイメージする濃密な抒情よりも、むしろ清楚な爽やかさが感じられる演奏でした。
初めて聴いた、自作自演の『川のささやき』は、日本的な抒情を思わせるイージーリスニング風の曲想。
たまたま続けて聴くことによって、ラフマニノフやリストの演奏から聴き取れる抒情と、自作品の持つ抒情とは、瓜二つのものだと感じたのです。
言い換えれば、彼の持つ抒情性は、曲の解釈を超越した消し去りがたい個性として、現在はどの演奏にもそのまま反映されているように思えたのです。
ハンガリア狂詩曲第2番の演奏が終わった時には、スタンディングオベーションを受けるほどに聴衆を感動させましたが、
それは、曲と彼が有する抒情性との相性が、聴衆に受け容れられた結果なのだろう、
あらためて聴き直した時に、そのように感じました。
しかしながら、今の彼の演奏は、作曲者や曲の違いにも関わらず、同質の個性が反映されてしまうのではないか…?
こんな懸念も、彼のファンの方にとっては素晴らしいことだろうと思うのですが、
でも、将来の可能性を期待したい私などには、もっともっと多様な表現力を身につけて欲しい演奏家だと思うのです。
確かにリストやラフマニノフは、彼の個性と曲想が合致した素晴らしい演奏だと思いましたが、
その一方では、ショパンの『子守唄』が、ヒーリング音楽のように響いてきて…
曲想を考えれば、彼特有の抒情の表出は、極力抑制しなければならないと思うのですが…。
報道によると、全盲の彼は、点字の楽譜を読み込んで曲を理解したのではなく、左右別々に弾かれた他者の演奏を聴くことによって、曲を暗譜しているそうです。
上手な演奏だと思う反面、どこか優等生的で、ひらめきに乏しく、オリジナリティーの希薄さを感じてしまうのは、そのためなのかと思いましたが…
コンサート会場で聴かれた方は、どのようにお感じになったのでしょうか。
ただ、彼は、曲を隅々まで理解した上で、全体を俯瞰して、表現する能力に長けた人だと感じるからこそ、
自ら楽譜を読み解くことによって、大きく成長してほしいと、余計に思ってしまうのです。