私はこの声を聞くと、周囲の静けさや長閑さがより一層引き立てられて、自然の中で生活できる喜びを、あらためて実感することができます。
クラシック音楽の世界でも、色んな鳥のさえずりに混じっても、カッコウの特徴的な鳴き声は存在感を発揮し、
例えば、ベートーヴェン“田園交響曲”の第2楽章では、自然の長閑さを、
マーラー交響曲第1番“巨人”の第1楽章では、鬱蒼とした森の夜明けの雰囲気が、
その後の曲の展開に、大変に重要な役割を果たしていると思えます。
私はベートーヴェンやマーラーの曲には、自然界の中でカッコウの鳴き声を聞く喜びと全く同一の感慨が、聴き取れると感じているのです。
ところで我が国では、閑寂なさま・物淋しいさまを「閑古鳥が鳴く」と表現しますが、この“閑古鳥”とはカッコウのこと。日本人はカッコウの鳴き声を聞くと、そのようなイメージを抱いたということなのでしょう。
ただ私の場合は、その鳴き声を聞いて自然の恵みを享受する喜びを感じたことはあっても、物淋しげな印象を抱いたことはありませんでした…。
だから、芭蕉のこの句も、言葉の戯言のように思われて、句の解説を読んでもいま一つ理解できないのです…。
イギリス近代の作曲家ディーリアスの管弦楽曲に、“春初めてカッコウを聞く”という小品があります。
随所に木管が奏するカッコウの鳴き声が聞こえる、たゆたうような一抹の淋しさを帯びたこの音楽は、地味ではありますが、まさしく日本人好みの曲で、私も大好きなのです。
ビーチャムの指揮するロイヤル・フィルの演奏は、自然の息吹までが実感できる素晴らしいものです。
ただカッコウの鳴き声が淋しげで、普段自然の中で耳にするのとは異なっているために、もし同じように奏されれば、どんな感慨の曲になるのだろうと、そんなつまらないことも考えてしまいます。