放 浪 記 (11)

き ぬ さ や

2001.3 


三月三日の雛祭り=B

弟との男二人兄弟だった私には縁のない日でしたが、恥ずかしながら唯一度だけのほろ苦い想い出があります。

小学校2年生の時、同級生の女の子から雛祭り≠フご招待が有りました。

今でこそ、お誕生会等子供主体のパーティーは頻繁に開かれているようですが、昭和30年頃の大阪の片田舎だった高槻市では聞いたこともない、ラジオドラマ(その頃未だTVは普及していません)の中だけの世界だと思っていました。

招待頂いたことに嬉しさと戸惑いを感じつつ、子供なりにプレゼントの心配をしたものです。

その事を耳にした父の「子供がそんな心配をする必要は無い。後で御礼はするから…」との一言で、手ぶらで出かけることになりました。

男子が私を含めて3人、女子が4〜5名招待されていましたが、不安は的中。皆それぞれにプレゼントを手渡しています。

それを見た私は、バツの悪さに完全に落ち込んでしまい、一時も早くその場を立ち去りたいと思いました。

唯、彼女のお母さんや中学生のお姉さんが、私の気持を察して下さったのでしょう。
頻りに声をかけて下さったのが、唯一の救いでした。

家に帰ってから母に八つ当たり。

何を言ったかは憶えていませんが、母が泣き出したことはハッキリと憶えています。

そして、母から事情を聞いた父に「男がそんなことでメソメソするな」と厳しく叱咤されたことも…。

同級生だった彼女の記憶は殆ど残っていません。

唯、彼女のお母さんやお姉さんは、その後も道で出逢う度に親しく声をかけて下さったので、どれ程心が安らいだ事でしょう!

その時のご馳走も殆ど憶えていません。

唯一、印象に残っているのがお吸い物に入っていた『きぬさや』です。

料理が余り得意でない母の『きぬさや』は、凍り豆腐と一緒に炊きこまれたクタクタ≠フものでしたが、この時食べた『きぬさや』は鮮やかな緑色で、歯触りがシャキッとしたもの。

今でも緑鮮やかなシャキッとした『きぬさや』は、私にとっては特別な食べ物で、あの頃のお母さんやお姉さんを想い出し、すごく幸せな気持ちに包まれます。