放 浪 記 (10)

東 京 弁

2001.5 


幼い頃、桜の花の咲く時期に、二年に一度、東京からのお客さんが我が家にお見えになりました。

父の従姉とその娘さんで、大阪で一人暮らしをするお姉さんに会うために帰阪し、そのついでに我が家にも立ち寄られていました。

その度に、当時大阪の片田舎の高槻では目にすることがないような、美しい包装紙に包まれた洋菓子を頂戴しましたが、それを見る度に東京に憧れを抱いたものです。

でもそれ以上に憧れたのは、わたしの一つ年下の娘さんが話す東京弁。

当時、ラジオや映画でしか聞けなかった言葉遣いを、おっとりした口調で話す彼女の姿が少しおしゃまに感じられ、日常を離れた異文化に接するようで、何とも心地よい感慨を覚えたものです。

小学生になった頃から、二年に一度の春を待ち遠しく思うようになりました。

 「毎年でも帰りたいのだけれど、お金が無くってね。でも、皆に会いたいから、一所懸命に働いて、二年に一度は帰れるように頑張っているのよ」。

新幹線がまだ開通していなかった当時、東京⇔大阪間は、最速の特急でも、片道ほぼ8時間を要したそうです。

しかし伯母さんの話ぶりや、周囲の様子から、東京は単に距離が遠いからだけではなくて、何か事情があってなかなか戻ってこれないのだろうと、子供心に感じたものでした。

ですから、私が中学校に進学した頃に、伯母さんの唯一の身内だったお姉さんが亡くなった事を知った時、これで二度と会えないだろうと、悲しくなったことを覚えています。

彼女に再び会う機会が訪れたのは、私が大学生の時でした。

弟が東京の大学に入学した時に色々お世話になった事もあり、物見遊山がてら上京した折に、両親からのお土産を持ってお宅へ伺いました。

前日に電話して出掛けると、思いがけずも彼女はわざわざ仕事を休んで、東京の街を案内してくれました。

既に社会人二年生で、ほんのりと薄化粧をした彼女は私よりも大人に見え、気恥ずかしさと誇らしさが相半ばしたような気持ちで歩いたことを想い出します。

初めてお宅へ伺った印象からは、決して豊かな暮らし向きとは思えませんでしたが、羨ましいほど温かい家庭だと感じました。

翌年、大阪万博を見学するため、彼女は婚約者を含む友達三人と我が家に宿泊。

東京での御礼がしたくって、彼女とその友人たちを京都北山のレストランに招待しようと、アルバイトをしながら楽しみに残してきたそれなりの大金は、思いがけない男性の出現によって、招待することを躊躇したために、結局学友との飲み代に消えてしまいました。

後年、弟夫婦には、息子4人の後に漸く女の子が誕生し、彼女と同じ恵≠ニ名付けられました。

意味ありげに含み笑いをしながら、娘の名前を紹介した弟の表情から、全てを察することが出来ました。

私達兄弟の幼かりし日の桜の季節の想い出は、どうやら同じものだったようです。