残ったご飯をかけ込み、火の手の方向へ走って行くと、何と中学校の校舎が、めらめらと燃え上がっていました。
この校舎は、元々第二次大戦中兵舎として使用されていたそうですが、中学校の敷地に隣接していたので、昭和30年代前半からの大都市近郊の人口増加に伴う教室不足を補う為に使われていたものでした。
油が染み込んだ板張りの床は、歩くとミシミシと音がし、窓も開閉がままならないような状態。
そんな校舎が、必死の消火活動にも拘わらず、炎に包まれあっけなく崩壊するのを目の当たりにしました。
火事の後、その校舎を使っていた一年生は、午前・午後の二部授業で当座のカリキュラムをこなしていたと記憶しています。
火事の原因は、老朽化した配線の不備に起因する漏電。にも拘わらず、火事の直後から宿直者の責任問題が噂され始めました。
当時の学校の夜間管理は、現在の様に警備会社に一任するものではなく、男性教諭のみが順番に宿直を担当し、不意のアクシデントに備える体制。
翌日から、「宿直者が、出火時に偶々夕食に出ていた為に発見が遅れ、全焼させてしまった」との噂が流れていました。
その日の宿直者は、芸大を卒業された若い美術の先生でした。
芸術家気質が強かった所為か、お勉強を懇切丁寧に教えてくださる教師像とは対極にある、私にとっては苦手な部類の先生でした。
授業の内容は全く憶えていませんが、生徒への評価は、他の学科の成績とは切り離した公正なものでした。
そのために、絵が下手だった私は、通信簿に前代未聞の評価をつけられ、青くなった事もありました。
でも、授業外で話される画壇の様々なエピソードを聞くのが面白く、クラスを越えた有志で、放課後美術室へ良く出入りしたものです。
にも拘わらず、私にはどこか一線を画した存在でした。
子供心は純真だ、と言いますが、それなりにわきまえているつもりでも、無邪気さ故に時に残酷な印象を与えることも有ったようです。
火事の後の最初の授業に臨む際のクラスの雰囲気は、「先生はどんな顔をして教室に入り、どんな様子で、どんな授業をするのだろう」の一点に集中。
タブーとは思いつつ、私を含むクラス全員が好奇心に目を輝かせていた様子をはっきりと記憶しています。
その授業で先生がどういう風に振舞われたのか、記憶には全く残っていません。
でも、担当されていた授業毎に、生徒達のそんな好奇の眼を敏感に察知されたのでしょう。
それまでは、気取った様子で余り好きでなかった先生の後ろ姿が、その時を境に寂しそうに見え始めました。
同時に、今まで取っつき難く感じられた先生の人間性に触れたような気がし、急に親しみを感じました。
放課後、それまで以上に美術室に通い、現代の絵画や彫刻について教えていただいたものです。
そんな私達に対し、授業外での接触を注意する先生もいらっしゃいましたが、その方は、後に市の教育長に出世されたとか…。
二ヶ月後の学年末最期の授業は、先生の教師としての最期の授業でもあったようです。
多くは語られませんでしたが、教職を退く無念さが痛い程に伝わり、中学二年生なりに割り切れない矛盾を感じたものです。
先生の過失とは判断されなかった様ですが、それでも同僚の先生、教育委員会、PTA等の冷たい視線を感じられたのでしょう。
大方が予想した通りの結末でした。
その後、どのようなご活躍されたのか、高校進学後は現代美術とはすっかり疎遠になりましたので全く分かりません。
放課後の美術室で理解したつもりだった話の内容も、すっかり忘れてしまいました。
でも、下校時間のチャイムが鳴っても、芸術について熱っぽく語られていた先生の姿は、今も瞼に焼き付いています。