放 浪 記 (7)

- 野  分 -

2003.9 


野分:(野の草を分けて吹く風の意) 二百十日・二百二十日前後に吹く暴風(広辞苑より)

豊かに実った稲穂を分けて吹く心地よい風は、当時の私の周りで見慣れた日常的な心象風景でした。

確か『源氏物語』だったと思いますが、初めて野分≠ニ言う言葉に接したとき、その意味は即座に理解できました。

それは、僅かな数秒の時を隔てて、彼方に一条、此方に一条と、現れ消える風の道を、漢字二文字で視覚的に表現したもので、日本語の素晴らしさにほとほと感心したものでした。

花鳥風月を愛でる、古来の伝統が生んだ言葉なのでしょう。

言葉に惚れて、野分≠イメージできる曲を捜して、色々と聴き漁った時期もありました。

音楽では様々な手法で風≠ェ表現されていますが、一番ストレートなのが、風音機を使った音楽でしょう。

R.シュトラウスの『アルプス交響曲』や『ドン・キホーテ』に登場しますが、単なる効果音に終わるのではなく、曲のイメージが広がるように感じられるのは、さすがだと思います。

嵐をテーマにした音楽は、グリーグの『ペールギュント』やR.コルサコフの『シェラザード』等のお馴染みの曲を始めとして、数多く有ります。しかし殆どが曲のクライマックス部分と重なり、日本的な風情とは縁遠い音楽です。

ドビュッシーの交響詩『海』の第二曲波の戯れ≠ナは、一陣の風により水面が波立つ瞬間が、実に鮮やかに表現されています。

素晴らしい曲なのですが、唯、私の心象風景は、あくまでも稲穂を分けて吹く風…。

一時期には、あれやこれやと聴き漁りましたが、結局思い描いたイメージに出遭うことはありませんでした。

先日、スメタナの連作交響詩『我が祖国』の第四曲ボヘミアの森と草原から≠、ドラティ/コンセルトヘボウの演奏で聴きました。

少し憂愁を湛えた前奏部が終わり、弦楽の各パートがカノン風に奏する動機が始まった時、思いがけずも、長らく捜していたイメージ通りの野分≠ェスピーカーから流れ出しました。

この曲は、レコード時代から何度も聴いて良く知っていたはず。

特にターリッヒ指揮のチェコ・フィルの演奏は、嘗て歴史的名盤と評され、私にとっても心酔していた≠ニ言って良いほどの愛聴盤でした。

しかしながら、如何せん1940年代のモノラル録音の為に、楽器の定位感がなく、音も劣化し貧弱だったので、細かいニュアンスが聴き取れなかったのです。