放 浪 記 (5)

-声楽とのふれあい -

2003.11 


クラシックを聴き始めてから40数年になりますが、長い間声楽曲は好きになれませんでした。

語学コンプレクスも要因の一つでしたが、それ以上に、歌詞の意味を理解しようと、目で対訳を必死に追いながら曲を聴いていたのですから、とても楽しむどころではありません。

 私の友人に、声楽のみを聴き続けている男がいます。

「何故?」と訊ねると、「声は最高の楽器だから」。

「歌詞の意味が理解できるの?」と訊ねると「意味は考えず、声を楽器の音色として聴く」との返答でした。

歌詞が存在するために、理解して聴くのが当然の様な錯覚に陥りがちですが、元来作曲家が詩に感動しそれを音符化しているはずですから、音だけを聴いていても何ら不都合は無いはず。

そう合点した私は、ひたすら歌詞を無視して、音のみに気持ちを集中させるようにしました。

 当時の私はシューベルトの音楽、とりわけ晩年のピアノソナタや室内楽に共通して流れる、死を意識せざるを得ない寂寥感に惹かれ、めぼしいディッスクを手当たりしだい買い漁っていました。

ですから、そんなに好きだったシューベルトが残した厖大な歌曲を殆ど知らないとは、もったいない話だと常々思っていました。

 彼のアドヴァイスは、まさに正鵠を得ており、ひたすら音を聴くことで、曲の美しさは充分に伝わり、数多くの新しい感動を体験することができました。

どうしても内容が気になる曲は、後で辞書とにらめっこすれば、何とか理解出来たように思えますから…。

それが高じて、3年前の正月には一大決心をして、F.ディスカウの歌ったシューベルトの男声のために書かれた歌曲全集を、半年かけて聴き通しました。

 正直に申し上げると、中にはつまらなく感じる曲が連続して、「たかが趣味の音楽のために、何故こんなことを…」と、馬鹿らしく思ったこともありました。

 でも、一人の作曲家の歌曲を、一人の歌手で聴き通すことによって、おぼろげながらその面白さが分かってきたように思います。

そういった意味では、我ながら貴重な体験であったと思います。