「旧約聖書(=ユダヤ教の教典)で預言されている救世主とは、私(=イエス)である」と宣言し、神の教えを説いたイエスが、
彼の言葉を信じず、逆に神を冒?する行為として激怒した多くのユダヤ人の手によって十字架上にかけられ、受けた苦難を意味します!
受難曲とは、新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書(=イエス・キリストの言行録)のいずれかに基づいて、イエス・キリストの受難を描いた音楽作品。
前三者の福音書では、彼の受難は「宿命的な悲劇」として捉えられているとか…。
バッハの作品を例にとると、有名な「マタイ受難曲」では、人間的な悲しみを歌い上げたアリアが数多く登場しますが、
「ヨハネ受難曲」では、
受難を「神の意志の成就」として捉えるためか、音楽自体が動的で切迫感に溢れており、
同時に、18世紀前半に書かれたとは思えないほどに自在で多様な表現に、しばしば驚かされました。
今回聴いたのは、K.リヒター/ミュンヘン・バッハ管弦楽団による1964年盤で、言わずと知れた、名盤の誉れ高いもの!
福音史家役のヘフリガー、イエス役のプライの高貴で威厳に満ちたレチタティーヴォの素晴らしさもさることながら、
特筆すべきは、合唱の素晴らしさでした!
特に、イエスが捕縛され、十字架にかけられる運命を暗示するかのように不安で、心が張り裂けるような、悲鳴にも似たただならぬ雰囲気が漲る冒頭部!
そして、第39曲イエスの遺体が十字架から下ろされ、弟子たちによって埋葬される場面の、波状的に押し寄せる悲しみの表現!
モーツァルトが「レクイエム」の第8曲「ラクリーモサ(涙の日)」を死の床で書いた(と言われていますが)時、バッハのこの音楽が頭をよぎったのではないかと、ふと思ってしまいました。
そして、終曲(第40曲)のコラールは、イエスの尊い自己犠牲に対し、天上の光が降り注ぐように、清らかで感動的なもの!
最近このコラムに、「年齢のせいか涙腺が緩んできた」と度々書くようになりましたが、
今日ほど音楽に痺れたことは、65年の生涯でも、数えるほどしかありませんでした。
あまりに膨大すぎて、どれから聴けば良いのか判らず、結局これまでは手つかず状態だったバッハの合唱曲ですが、
ヨハネとマタイの2つの受難曲だけでも様々な演奏で味わい、歌詞についても考えてみたいと思いました。