その作品があまりに長大なため、自らの交響曲を演奏する機会はなかなか得られなかったとか…。
自らの作品を後世に正しく伝えられるよう、ワルターやクレンペラーといった直門の指揮者を育てあげました。
「大地の歌」も生前に指揮する機会はなく、マーラーの死から半年後の1911年11月20日、当時36歳だったワルターによってミュンヘンで初演されたもの。
ベートーヴェンやブルックナーが9つの交響曲を書いた後に死去したというジンクスを忌み嫌って、第9交響曲とはせずに、「大地の歌」と命名したことは、クラシック音楽愛好家には衆知の事実…。
ドイツの詩人ハンス・ベートゲ(1876-1946)が、唐詩に基づいて翻訳・編集した詩集「中国の笛」から7編を選び、一部マーラー自身で改変した歌詞を題材に、作曲したものです。
この曲を、初演者ワルターの指揮するウィーン・フィルの定評ある名演でエントリーします。
【第1楽章:世の憐れに寄せる酒の歌】
パツァークの醒めた暗い陰のある表現と、オーケストラとりわけ木管の寂寥とした響きが、この世の無常を醸し出す素晴らしい演奏!
終盤、奈落の底に突き落とされるような“Seht dort hinap!”の絶叫の無気味さは、“Dunkel ist das Leben、ist der Tod!(生は暗く、死も暗い)”という、生の虚無的な深淵の表現でしょう。
【第2楽章:秋に一人寂しき者】
霧に包まれた秋冷の朝、中国風の庭園の東屋に佇むような趣が…。
フェリアーの歌声と木管の織り成す響きが、無常観を漂わせますが、
とりわけ、“Sonne der Liebe(愛の太陽よ)…”と高らかに歌われるところの、諦念を含んだ美しい憧れには、思わず目頭が熱くなります…!
【第3楽章:青春について】
中国的な旋律に溢れたこの楽章は、爛漫の春に、戸外で酒を酌み交わしながら談笑する様子が…。
中間部のけだるい雰囲気は、酩酊状態を表しているのでしょうか。
【第4楽章:美について】
主部は、艶めかしい雰囲気を湛えた乙女たちの会話なのでしょうか。
中間部では、馬を駆って登場する荒々しい若者の姿が彷彿できます。
後半部の優しくも頼りなげな音楽は、若者に恋をした乙女心を表すような…。
【第5楽章:春に酔える者】
“Wenn nur ein Traum das Leben ist 、Warum den Müh; und Plag?(人生が一場の夢ならば、努力や苦労に何の価値があろうか)”
この歌詞のように、投げやりで楽天的な人生観が(ある種の憧れをもって)歌われています。
【第6楽章:告別】
前楽章とは一転し、バスドラムが不気味に鳴り響く中、寂寥とした心情を吐露するようなフェリアーの表現の素晴らしさ…。
虚無と諦観へと沈んでいく終楽章を、ワルターは低弦の持続音をおどろおどろしげな宿命のように鳴り響かせる一方で、
「死の世界が、幸福で美しいところであって欲しい!」
そんな慎ましやかな願いを込めて、各旋律を歌わせているように聴き取れますが、
もしかすると、この曲を作る前に亡くなったマーラーの長女に対する哀惜の念を、思い浮かべながら演奏しているのでしょうか…。
“Die Vögel hocken still in ihren Zweigen(鳥は静かに木の枝で休んでいる)”から、管弦楽だけで奏される長い間奏部にかけては、自然界の漆黒の闇を彷徨うようにして情景を表現しつつ、その中に東洋的な無常感が漂う素晴らしい世界…!
“Du、mein Freund、Mir war auf dieser Welt das Glück nict hold!(友よ、この世に私の幸福はなかった)”での、ため息のようなオーボエのグリッサンドは印象的!
最後は、“Ewig…、ewig…”と繰り返し、巡り来る日への憧れを抱きつつも、諦観を湛えたままに静かに曲は終わります。
20世紀前半に活躍した巨匠ワルターが残した、これは素晴らしい演奏です!