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A.スクリャービン:交響曲第3番「神聖な詩」

リッカルド・ムーティ指揮 フィラデルフィア管弦楽団


スクリャービン(1872-1915)はその晩年、通常の認識や理論を越えた体験をすることによって神の啓示に触れようとする信仰・思想を抱くようになり(=神智学への傾倒)、

自らの芸術は、そんな体験から得た内面的・霊的な直感を表現するためのものと位置付け、創作活動を行うようになりました。

その発端となったのは、彼が20歳代の半ば、ニーチェ哲学の「超人思想」に触れて心酔。

誕生日がロシア暦のクリスマスだったこともあって、自らを救世主と思い込んだために、一層深く傾倒するようになったと言われています…。


1902〜4年にかけて作曲された響曲第3番『神聖な詩』は、

第1楽章:闘争
第2楽章:官能の喜び
第3楽章:神聖な戯れ

以上のような副題が付けられた3つの楽章から構成されていますが、

各楽章間に切れ目は無く連続して演奏される、50分近くにも及ぶ長大な交響曲!

神秘主義的な傾向が現われはじめた作品、と位置付けられています。


エントリーするのは、ムーティ指揮するフィラデルフィア管による1988年の録音。

物事を素直に信じることが出来ない私にとって、スクリャービンの交響曲第3番は、どうにも観念的に思えて、どこか冷ややかな目(耳?)で聴いてしまうのです。

例えば第1楽章序奏部、トロンボーンによって奏される「神聖な動機」からして、あくまでも重々しい仕掛けのような印象を受けてしまい、
自分の中でそのわざとらしさが払拭されないままに、曲は進んでいきます。

第2楽章では、小鳥が囀り、天上のパラダイスを思わせるような大変に美しい音楽が登場するのですが、
この美しさも「パラダイス」の概念を音化しただけの、空疎な音楽のように感じてしまうのです…。


「それなら、聴かなければいいのに!」と思われるでしょうが、

あれこれと不満を感じつつも、

豊潤で起伏が大きいにもかかわらず、上品で美しいサウンドに酔い、

飽きることなく最後まで聴き通してしまい、

聴後にはそれなりの満足感を味わっているのです。

スクリャービン教のイニシエーションに洗脳されるのでしょうか?

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