NHK-FMの「トスカニーニ・アワー」で放送されていた第1楽章、
小太鼓のリズムに乗って、間の抜けた、陳腐とも思える「戦争の主題」(以前、某製薬会社のビタミン剤のCMで「チーチンブイブイ」とやっていた、あの旋律です)が、
謹厳実直に力強く (トスカニーニでしたから、余計にそう感じたのかもしれません)、大真面目に何度も繰り返されるのを聴いて、
クラシック音楽とは真面目で高尚なものと教えられていた当時の少年にはとても受け容れがたく、好きにはなれない曲でした…。
しかし、その圧倒的な破壊力に強烈な印象を抱いたこと、今でもはっきりと覚えています。
1941年7月、当時レニングラード音楽院で作曲を教えていたショスタコヴィッチは、ドイツ軍が侵攻してくる中で作曲を開始、同年末には全4楽章が完成、
曲はドイツ軍に包囲され、阿鼻叫喚の地獄と化していたレニングラード市に捧げられました。
ソ連政府はこの曲を国内の戦意高揚に利用するばかりでなく、マイクロフィルム化された楽譜を連合国側に送付、
アメリカ政府は連合国側の連帯を強化する目的で、トスカニーニ/NBC交響楽団の演奏を、全世界に向けてラジオ放送したそうです。
私が半世紀前に聴いたのは、どうやらこの時の演奏…。
当時はヒトラーやムッソリーニ(加えて日本)のファシズムに対する批判が込められた音楽とされていた曲ですが、今ではソ連の全対主義に対する揶揄も込められていると解釈されています。
改めてこの曲を聴き始めたのは、バーンスタイン/シカゴ饗の新譜が発売された1990年の頃でした。
その頃、中東で湾岸戦争が勃発し、その様子を伝えるTVの映像が、まるでゲームを見ているように感じられて、慄然としたことを思い出します。
その印象が、この曲の第1楽章と妙に重なってしまって…。
人間の愚かしさを痛烈に揶揄した音楽と、それ以降は感じるようになりました。
第1楽章は、人間の力強い生命力を謳った第1主題、
平和な生活を謳った第2主題が終わると、
前述した「戦争の主題」が遠くから聞こえ始め、
阿鼻叫喚の中、全てを粉砕…。
瓦礫の山と化した市街地に漂う、悲しみ、絶望が描かれています…。
第2楽章に漂う穏やかさは、根なし草のような儚いもの。
中間部の勝利に突き進むような音楽は、倒錯的な快感を表現しているのでしょうか?
第3楽章、冒頭の慟哭するような悲痛な叫びに続く穏やかな悲しみの音楽は、まるでレクイエムを思わせるよう…。
休みなく続く終楽章の、道打つように執拗鳴り響く音楽は、それこそ自国の体制に対する批判を込めたように思えるのですが…。
それほど多くの演奏を聴いたわけではありませんが、この演奏が最も作曲家の意図が伝わってくるものだと思いました。
ただ残念ながら、バーンスタインの表現せんとする意図が、名人集団シカゴ饗のメンバーに伝わりきらず、情熱が空回りしているように感じたことも、申し述べておきます。