2年後の19交響曲39年には、全く趣の異なった第6番を作曲しました。
瞑想的、抒情的であり、彼特有のアイロニーにも富んだ側面を有するこの作品。
ショスタコーヴィチ自身はソ連共産党機関紙のプラウダに、「この音楽で、春、喜び、青春と言った気分が伝われば…」と語ったとか。
ただ、この発言を額面通りには受け取らず、「きっとウラがあるはず…」と考える方も、少なからずいらっしゃると思います…。
今日エントリーするのは、R.バルシャイ指揮するケルン放送交響楽団の演奏。
作曲者の真意はさて置くとして…
この演奏による第1楽章!
文学や美術に対して貧相な造詣や感性しか持たない私ですが、
バルシャイの演奏からは、これまでに一度たりとも体験することができなかった、透徹した純粋な美の中に存在する蠱惑的なまでの恐怖を、身をもって感じました…。
冒頭、弦のユニゾンで奏されるテーマは、透明感に溢れた大変に美しいものですが、
その一方で奈落の底を見通すように、
凍てつくような恐ろしさを秘めたもの。
そんな雰囲気が楽章全体を支配する中で、
炸裂するティンパニィのトレモロ、
葬送のような歩み、
虚空を逍遙するようなフルートの不気味な音色、
魂が凍りつきそうな寂寥感…。
バルシャイの凄絶なまでの演奏は、これまで聴いた数多くのショスタコーヴィッチ演奏の中でも、頂点をなす一つの解釈だと感じました!
第2楽章は、心地良い春風の中を、軽やかに、時に狂気のように疾走することによってもたらされる狂騒的な快感が!
ショスタコーヴィチが言うように、確かに「喜び」が感じられるのですが、
その内容を深読みすることは、一筋縄ではとてもとても…。
第3楽章はウキウキ気分で、いっそう狂騒的に開始されますが、
やがてSLを思わせる力強いエネルギー感が噴出される音楽も登場…。
華やかさ、騒々しさは、やがて乱痴気騒ぎのような、能天気な盛り上がりをみせて、あっけなく曲は終わります。
蘊蓄を傾けて曲の背景をあれこれ語るよりも、
ひたすら音楽に身を任せて、人生の様々な側面を垣間見ながら逍遙する…
そんな面白さを感じながら、この名演奏を聴いています。