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ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第16番 op.135

ズスケ弦楽四重奏団


ベートーヴェン(1770-1827)の最晩年の1824〜26年は、専ら弦楽四重奏曲第12〜16番の作曲に費やされました。

そのきっかけとなったのは、1822年にロシアのペテルブルグに住む音楽愛好家のガリツィン侯爵から、「謝礼の額はベートーヴェンに決めて欲しい」という破格の好条件で、3曲の弦楽四重奏を依頼されたこと。

かねてからこのジャンルの構想を温めていたベートーヴェンには好都合な話でしたが、

当時は『ミサ・ソレムニス』『第9』といった大曲の完成に全精力を費やしていたために、作曲に取り組んだのは『第9』が完成した1824年2月以降になります。

依頼された3曲(第12、13、15番)に集中して取り組んだベートーヴェンでしたが、

尽きることのないファンタジーから楽想が次々に湧きあがり、それまでの作品様式に囚われることのない、全く自在な心境が表現された作品が誕生しました。

そしてそれらが脱稿した後も、とめどもなく湧きあがる楽想は、更に2曲の弦楽四重奏曲を完成させました。


今日エントリーする第16番は、その内の一曲で、彼の完成させた最後の作品となったもの。

この曲の第4楽章には、Der schwergefaßte Entschluß(ようやくついた決心)と標題が書かれており、

冒頭のgraveの音符の下には、Muß es sein?(そうでなければならないか?)、

そしてallegroの下には、Es muß sein!(そうでなければならない!)と書かれているために、

「ベートーヴェンが人類に投げかけた哲学的瞑想」とする高尚なものから、

「家政婦との給料の問題に関するやりとり」とする下世話なものまで、

昔から様々な解釈がなされており、未だ結論は出ていません…。


私はこの曲を聴き始めたのは、深遠な瞑想の世界を感じさせるバリリ弦楽四重奏団の演奏。

精神が浄化されるような清らかな高尚さを感じる半面で、

修験者の如くに禁欲的で厳格な解釈に寛ぎが見いだせず、決して親しみの湧く演奏ではありませんでした。

にもかかわらず、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲に共通することですが、

そういった厳しさが感じられない演奏は、どうにも好きにはなれませんでした。


しかしながら、近年聴くようになったズスケ四重奏団の演奏は、

ラサールの演奏に聴ける高尚さ、厳格さを具えた大変に強い求心力を保ちつつも、

どこか安らぎが感じられるもの。

美しく歌われる旋律が、華やかさや豊潤さに陥る一歩手前のところで絶妙にコントロールされることにより、凛とした雰囲気を醸すためだと感じています。


各楽器が疑問を発しながらディスカッションを繰り広げ、思索・瞑想の世界へと誘われるような第1楽章。

深い祈りと瞑想に浸り、真に充実したひとときが共有できる第3楽章。

第4楽章は、前述した重々しい問いかけに対して、その回答があまりにあっけらかんとしているのは、諦観の境地に達したベートーヴェンの心境なのでしょうか。
狂喜乱舞するように、活き活きと自在に動き回りながら、ふっと消え去るように曲は終わります。

その余韻もが印象的な、素晴らしい深みを湛えた演奏です!

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