彼が書いた唯一のロ短調の作品で、全体にわたって救いのない哀しみに満ちたこのような曲がなぜ作られたのか、その背景については分かりません。
しかし、1786年5月に亡くなった、彼の生活の全てにわたって全幅の信頼を置いた父への追悼の意が色濃く反映されているためとの説が、最も有力視されているようです。
悲しみの中にも、彼岸から語りかけてくるような儚い美しさを湛えた曲との印象を抱きつつも、
私自身には、これまでこの曲を受け容れる感性が備わっていなかったのでしょう。
起承転結の希薄な、ただただ茫漠とした内容の作品としか感じられませんでした。
先日、そんな印象を払拭してくれた演奏を2つ、それも10数年にわたって所有していたディスクの中から発見しました。
その1つが、内田光子さんの演奏。
即興的に揺れ動くかのようなテンポの変化が、悲しみ、慟哭、憧れ、癒し等々の、刻々と変化する感情を表現する、極めて高度な演奏が展開されます。
悲痛さの中にも、陶酔的な美しさを響かせながら、最後には天国の鐘に迎えられるように…。大変に美しい演奏です!
もう一つが、アンドラーシュ・シフの演奏。
冒頭から弔いの鐘が鳴り響くような、強い表現を伴なった演奏です。
彼の演奏からは、波状的に押し寄せる悲しみの表現は、内田さんのようにテンポの変化ではなく、タッチの強弱で表現されています。
こちらは、モーツァルトの短調の曲でよく言われる、劇性をはらんだもの!
これらの演奏から、亡き人を哀悼するモーツァルトの心情が赤裸々に表現された作品であると確信した次第です。
中でも内田さんの演奏からは、ひしひしと迫りくる悲しみが感じられ、心底共感できる演奏と思いました。