初期作品の集大成とも評される自信作であり、
完成後は年内に初演すべく、何度かリハーサルも行われました。
ところが作曲家自身によって初演は撤回された後、26年間陽の目を見ることなく眠り続け、1961年になってようやく初演されるに至ったもの。
この曲には、暴力的で圧倒的なクレッシェンド、虚無感を漂わせつつ終わる各楽章、葬送風の行進曲と自らのこれまでの作品の回顧等、
向けられた鉾先があまりにも歴然とした、象徴的な内容が盛り込まれています!
歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』でプラウダの批判を受けた後でもあり、
前作の第2番「10月革命」や第3番「メーデー」のように、標題を掲げて体制に迎合した作品から、一転して作られたこの交響曲。
もし予定通りに初演されていれば、1936年以降のショスタコーヴィチの作品を聴くことは、一切できなかったかも知れません。
そういった意味では、生命すら脅かされる政治的制裁に結びつくような事態に発展しないようにお蔵入りさせ、その後も創作活動を続けた彼のしたたかな判断に、我々は感謝しなければなりません…。
警鐘を連想させる第1楽章冒頭部。
第1主題の展開は、盲目的に突進することにより生ずる、快感すら覚えます。
超快速テンポで演奏されるフガート部から、打楽器を伴なって昂揚する音楽には、自己陶酔にも似た暴力的な熱狂が!
その後に訪れる寂寥感が、明滅する虚無感へと転じていく音楽…。
第2楽章は、ゆるやかに揺れる三拍子のリズムに、虚無感が漂います。
コーダ部分では、交響曲第15番の終結部のような、不思議な軽みの中に惹き込まれるような、儚い美しさが…。
終楽章は、ティンパニとコントラバスが刻むリズムに乗ったファゴットの奏する葬送行進曲のような陰鬱さと、
これに対比させるかのように、前作『黄金時代』『バルト』『ハムレット』等のバレーや劇音楽の楽し気な楽想が登場します…。
そしてコーダでは、第1楽章冒頭の警鐘がコラール風に響き渡り、
やがて訪れる虚無感の中、チェレスタの美しく儚い響きの中に曲は消えていきます。
バルシャイ指揮のケルン放送交響楽団の演奏は、この象徴的な作品の意図を見事にまとめ上げた、大変に判り易い演奏だと思います。
政治・社会情勢とリンクして語られてしまうことが多い彼の作品。
様々な背景を知ることによって、曲をより深く理解できるのは当然のことだと思いますが、
そんな予備知識がなくとも心ゆくまで楽しめる、インスピレーションに溢れた作品。
ショスタコーヴィチの代表作と評される所以でしょう。