モーツァルトは、曲の随所に意図的に作曲上の間違いをさりげなく、時に極端なまでにデフォルメして散りばめることによって、仮想の作品や演奏を創出したのです。
昔、この曲をモーツァルトの代表作の一つに挙げ、高い評価を与えていた文章を読んだことがありますが、
惚れた弱みで「あばた」が「えくぼ」に見えるからなのか、
それとも、事の善し悪しを問わず上司におもねるサラリーマンのように、単にモーツァルトという権威にへつらっているだけのか、
いずれにしても、私には単なる戯言としか思えませんでした。
「聴き進むうちに、インスピレーションが触発されること」
これが音楽を聴く悦びの最たるものだと思うのです。
しかしながらこの曲は、聴くたびに第1楽章のささやかな「苦笑」に始まり、
盛大に音を外す目茶苦茶なフィナーレに、バカにされたような不快感を覚えながら聴き終えるという、
私にとっては何の楽しみもない音楽との印象しかありませんでした
勿論、こんなことに目くじらを立てているようでは、「お前にはユーモアのセンスが欠けている」と言われても、仕方ないでしょう…。
ところが、先日ウィーン室内合奏団の真摯に曲と取り組んだ演奏を聴いて、少しばかり印象が変わりました。
第2楽章のメヌエットの長〜い中間部や、
第3楽章で延々と奏でられるヴァイオリンのカデンツォは、
形式的にはモーツァルト以前の様式からは外れたものなのでしょうが、
演奏の美しさに惹き込まれて、興味津々聴き通してしまいました。
こうなると、第4楽章の精彩に欠けるフーガも好意的に聴けて、どこか耳新しさすら感じられます。
この曲を聴いてインスピレーションが刺激されたのは、この演奏が初めてのこと。
フィナーレの盛大な音の外れも、いつになく好意的に聴くことができました。