今日エントリーする交響曲第25番K.183は、この時に書かれたもの。
当時17歳だったモーツァルトの、デモーニッシュなまでに迸る感情が吐露された、そんな作品と言えるのかもしれません。
18世紀後半のドイツの文学界では、
ゲーテやシラーが中心となって、理性による思考の普遍性と不変性を唱えた啓蒙主義に異議を唱え、
理性よりも感情が優越することを主張して書かれた小説『若きウェルテルの悩み』や、戯曲『群盗』といった作品が、若者を中心に幅広い支持を得ていました。
“Strum und Drang(疾風怒濤) ”と称されるこの運動は、当時のハイドンをはじめとするウィーンの楽壇にも影響を及ぼし、
悲痛な情緒表現を求めて、短調の曲が偏愛されたと言われています…。
モーツァルトの全交響曲や全弦楽四重奏曲の中で、それぞれ2曲づつしか書かれていない短調の作品(弦楽四重奏曲二短調K.173、交響曲ト短調K.183)が、
ウィーンを訪れたこの時期に作曲されているという事実から、
その影響を受けたと考えても、あながち的外れではないと思えます。
そしてこの2曲が、それまでの同ジャンルの作品と比べて明らかに深化している点も、多くの専門家の指摘するところです。
つい先年までは、ワルター/コロンビア饗の、悲痛なまでの感情を吐露した、まさに疾風怒濤と呼ぶに相応しい演奏を好んでいました。
この曲に関しては、昔LPで聴いたウィーンフィルとのライブでも、
「穏やかで雅」「常に微笑みをもって…」等と評されていたワルターのモーツァルト演奏のイメージからはかけ離れた、デモーニッシュなものだったと記憶しています。
ワルターの25番は、大変に感動的な素晴らしい演奏だと、今でも思いますが…。
年齢のせいかもしれませんが、最近はクリップスの朴訥とも言える表情で淡々と語られる語られる演奏に、より共感を覚えるようになりました。
穏やかさの中にも張り裂けるような悲痛さが、十全に表現されていると感じられるからです。
この素朴な味わいは、LPで聴いていた30歳代には、ただ退屈な演奏としか思えなかったもの。
こんなことがあるものですから、ディスクを迂闊に処分することができないのです。