ストラヴィンスキー(1882-1971)が、母国の先輩作曲家チャイコフスキー(1840-1893)へのオマージュを込めた作品と言われ、随所に彼のピアノ曲やオペラ曲の旋律がちりばめられているそうです。
ストラヴィンスキーの代表作と言えば、1910年代前半に作曲された『火の鳥』『ペトルーシュカ』『春の祭典』の三大バレー音楽。
ロシアの土俗性や原始的なバーバリズムが表現されていましたが、
この曲は、バロック或いはそれ以前の調和的な様式美と格調を旨とする、新古典主義的な作風を追求していた時期の作品。
元来後期ロマン派主義の主情性、標題性へのアンチテーゼとして誕生し、既にバレー音楽『プルチネルラ』で、イタリアバロック音楽に理想的な古典美を見出した筈のストラヴィンスキーが、なぜチャイコフスキーへのオマージュなのか…。
この曲からは、機知にとんだエスプリを感じこそすれ、
チャイコフスキーの持つメランコリーな美しさを意識させないのは、ストラヴィンスキーの出した解答なのでしょうか…?
同じ素材を使っても、作風が異なれば、印象も全く異なってきます。
物語の粗筋は、
<第1場>
吹雪の山道を彷徨っていた母親に抱かれた愛らしい赤ん坊が、氷姫に口づけされたために、母親と別離する運命を荷なってしまう。
<第2場>
18年後、村人に育てられて立派な若者に成長した彼が、村の娘と結婚式を挙げるその日に、
横恋慕した氷姫は、美しく魅惑的なジプシーの女に化身して若者の前に現れ、彼の心を惑わせる。
<第3場>
式を挙げる風車小屋で、氷姫は花嫁の着けるベールで顔を隠して若者を欺き、口づけを交わしたために、若者の運命は、再び氷姫の意に翻弄され、
<第4場>若者は、愛する婚約者や育ての親のもとから去って、天国へと旅立っていくという内容。
曲へのコンセプトが曖昧で、ストラヴィンスキーの代表作とは決して言えない作品でしょうが、
決して主情に走らず、昇華された運命的な悲しみを感じさせる透明感や、
すっとボケたひょうきんさ等々…
こういった味わいに、私は惹かれます!