根が楽天的な性格のために、私には詩の持つ深い内容まではなかなか理解できませんが、
メリハリが効いて鳴りっぷりがよく、かつダイナミックな構成を持つこの曲には、リスト作品を聴いてしばしば感じる、見果てぬ夢とその儚さが描かれているようで、
若い頃から、そんな壮大なロマンに快感を覚えながら、度々聴いてきた曲でした。
この曲を初めて聴いたのは、フルトヴェングラー/ウィーン・フィル(1954.3録音)のLPであり、CD化されたその演奏が、現在の愛聴盤でもあります。
あたかも、無から微かに何かが生成されるように、再弱音で奏でられる低弦がうごめく、緊張感をはらんだ導入部…
そんなカオスの状態から、金管による壮麗なファンファーレに至るまでの、息つく間もなく一気に盛り上がる爽快さ…
この高揚感が鎮まって、弦が奏でる憧れに満ちた流れるような主題や、
それに続く、ハープの調べにのってホルンが奏する、精神の浄化を思わせる穏やかな主題…
この曲の第1部とされるこの辺りの展開は、昔から、独りよがりの男のロマンを感じながら聴いたものでした。
第2部にあたる嵐のような音楽は、人生の烈風に立ち向かう姿を表現しているのでしょう。
それを乗り越えた後に訪れる、第3部の平穏もひとときのもので、曲はどんどんとクレッシェンドして、
再び冒頭部のファンファーレがより壮麗に鳴り響いて、劇的に曲は終了します。
この曲に誇大妄想的な嘘っぽさを感じる方も少なくはないと思いますし、私もそれを否定はしません。
願わくば、実害のない熟年親父の見果てぬ夢と、一笑に付していただければ幸いです…。