にもかかわらず、30歳台までは、決して好きな曲とは言えませんでした。
全4楽章を通して、穏やかな幸福感に満ちたこの曲は、
同じ作曲家の第1番や第4番のように、気持ちが高揚する劇的な展開がみられないために、
当時の私には、いま一つ物足りないと思われる曲でした。
この曲が好きになったのは、私が40歳を過ぎた頃。
晩年のカラヤンが、1986年にベルリン・フィルと録音したCDを聴いてからのことでした。
旋律云々よりも、その響きの美しさに惹き込まれて聴き進むうちに、いつしかその幸福感に満足している、そんな演奏と感じました。
それは、1970年に同じコンビで聴いたライヴからは、全く得られなかった感慨でした。
カラヤンの解釈が変わっていったと言うよりも、
長年音楽を聴き続けてきたお蔭で、私の感性がこの曲を受け容れられるようになったのだと思います。
先日、バルビローリがウィーン・フィルを指揮したディスクで、この曲を聴きました。
こちらは、カラヤン盤とは異なり、旋律の隅々にまで、慈しむような愛情が込められた演奏です。
これまでにこの曲から聴き取ることができなかった、瑞々しい音楽に、耳を洗われるような思いがしました。
二人の演奏を比喩的に表現すると、
カラヤン盤は大気の移ろいゆく心地よさが感じられる演奏であり、
バルビローリ盤は生まれ出ずる一つ一つの命を慈しむような演奏と感じられます。
還暦を過ぎた今、演奏の優劣云々を言うよりも、そんな聴き比べを楽しんでいます。