最近聴いたCD

フランク:ヴァイオリン・ソナタ イ長調

デュメイ(ヴァイオリン)  ピリス(ピアノ)


この曲を初めて聴いたのは、高校生の頃だったと思います。

当時は室内楽のような小編成の曲を傾聴する感性など持ちあわせておらず、専らベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーをはじめとする、重厚長大なオーケストラ曲ばかりを聴いていた時代でした。

FM放送から流れる「哲学的な瞑想に耽るような曲」という意味の解説を聞いて、知的なものに漠然と憧れていた私は、興味を惹かれて聴く気になったのだと思います。

冒頭、曲全体を支配する主題がヴァイオリンによって奏でられた時、それまでに聴いたことのないような、不思議な音楽だと思いました。そんな印象が、“哲学的な瞑想”という解説者の言葉にピッタリと嵌っているように感じました。

それが曲に対する固定観念となり、長い間難渋な曲との印象を払拭出来ずにいました。

この曲を、集中して最後まで聴き通すことができたのは、デュメイのヴァイオリン、ピリスのピアノによる演奏でした。

曲が進むほどに、「一音たりとも聴き逃すまい」と集中力が増すような演奏でした。

特筆すべきは、第3楽章(レチタティヴォ・ファンタジー=幻想的叙唱)での、ヴァイオリンとピアノによる切なく美しい語り!

そして聴き終わった時には、目から涙とともに、鱗も落ちていました…!

このディスクのライナーノートの余白には、その時の印象を、

第1楽章「触れれば壊れそうな儚さ…」

第2楽章「辛くなるほど狂おしい想い…」

第3楽章「クリムトの絵のような、男女の恍惚とした表情を想起する音楽…」

第4楽章「想いが成就した女性の、未来への晴れやかな気持ち…」

と書き留めてあります。

これまで抱いていた難渋なイメージが払拭され、新鮮な感動が得られたことがよほど嬉しかったのでしょう…。

その時を境にして、“哲学的瞑想に耽る音楽”が、きわめて私小説的な“告白の音楽”へと変貌したのです。

この曲の第3楽章については、音楽評論家の黒田恭一氏が、自著『彼女だけの音楽』で、「言いたいことがあるのに、それと言えずにうつむく人の姿が見えてきて、胸がしめつけられるような気持になります」と記されています。

“哲学的な瞑想”と思い込んでいる時には、いま一つピンときませんでしたが、今ならば、そんな解釈も成り立つように思います。

氏がどの演奏を聴いてそう感じられたのか、そんなことにも興味がわいてきます…。  

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