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シューベルト:歌曲『弔いの幻想』op.7

テノール:プレガルディエン  ピアノ:シュタイアー


フォルテピアノの柔らかい響きに伴われて、“Sterne trauern bleich herab、wie Lampen in der Gruft“と歌われ始めた時、ブルガルディエンの信じ難いほど繊細で美しい歌唱に、身震いするほど感動しました。

シュタイアーの奏でるフォルテピアノの、隅々まで神経の生き届いた音色の、心に沁み入るような美しさ…。

3年前、それまであまり好きでなかった歌曲(特に男声)に、もっともっと親しみたいと、意を決してF.ディスカウとムーアのコンビによるシューベルトの歌曲全集を、半年かけて収録順に聴き通したことがあります。

この『弔いの幻想』は、シューベルトが14歳の時に、シラーの長編詩に曲を付けたもので、この全集の1枚目の、しかも冒頭に収録されています。

いの一番に聴いた曲ですから、善きに付け悪しきに付け、何らかの印象が残っていて然るべきなのですが、今回、ブルガルディエン&シュタイアー盤を聴き始めた時には、「こんな佳い曲、ほんまに有ったんかいな?」。

演奏に20分近くを要する大曲にも拘らず、最後に冒頭部分が繰り返されまでの間は、あっという間に時間が過ぎたように思えて、名残惜しさを感じさせつつ、曲は終わりました。

少し物足りなさを感じましたが、随所に美しさが発見できた、素晴らしい演奏だと思いました!

そうなると、自分の感性が変化したのかどうかを知りたくなって、記憶に全く残っていないF.ディスカウ盤に、俄然興味がわいてきました。

しかしというか、やはりというか、前述した冒頭部分では、何の感動も湧いてこない、極めて淡白な演奏でした。

「やはり、つまらん演奏だったんだな《と最初は思ったのですが、

“Zitternd an der Krüke、Wer mit düsterm、rückgesunknem Blicke、Ausgegossen in ein heulend Ach”

と歌われる辺りから、俄然演奏に深みが出てきたのです。

そして曲が終わった時には、プレガルディエン盤っを上回る満足感が得られました。

ライナーの訳詩に目を通すと、プレガルディエン盤で感動した前述の部分は、詩全体の内容から推して、それほど重要な意味をもつとは思えませんでした。

どうやらF.ディスカウ盤は、詩の内容に沿って曲全体を構成することに、力点が置かれているように思えます。

プレガルディエン盤は、譜面が読めませんので何とも言えませんが、曲の美味しいところを巧みに掬い上げているような印象を持ちました。その分、やや構成力に欠けたことが、物足りなさを感じた理由かも知れません

円熟という言葉を安易には使いたくないのですが、録音当時30歳代半ばだった彼が、50歳を過ぎた今、この曲をどのように表現をするのか、その変化にすごく興味を抱かせてくれる、素晴らしい歌唱が体験できたディスクでした。

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